ジラード事件

①事件発生

1957年1月30日、米軍演習場内で砲弾の薬莢を拾いにきていた地元の主婦Nさんが米兵に射殺された。

当時の在日米軍群馬県相馬原演習地(現・相馬原駐屯地)では、実弾射撃訓練が行われていた。演習地は立ち入り禁止措置がなされていたが、近隣住民は薬莢や発射された後の弾頭など金属類を拾って換金していたとして、しばしば演習地内に立ち入っていた。

 

目撃者が 

 

「米兵がNさんに声をかけて近くにおびき寄せてから銃を向け、逃げようとしたところを後ろから発砲した!」

 

と証言したが、米軍は当初、この事件をとり拾わなかった。

 

しかし日本の世論が激しく追及の声を挙げたため、一人の米軍兵は射殺したことを発表した。

 

 

 

②ウィリアム・S・ジラード

主婦の背後から発砲したのが第1騎兵師団8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード三等特技兵(当時21歳)が

M1ガーランド装着のM7グレネードランチャーで空薬莢を発射し射殺させたことが分かった。

 

 

⇩ちなみにれがM1ガーランド装着のM7グレネードランチャーである

 

目撃者の証言から、ジラードが主婦に声をかけ、近寄らせてから銃を向け発砲した可能性があることがわかると、アメリカへの批判の声が高まり社会現象となった。

ジラードが主婦を射殺した時は休憩時間であったことから日本の裁判を受けるべきであると日本側が主張し、アメリカ陸軍が職務中の事件だとしてアメリ軍事法廷での裁判を主張するなど、アメリカ側からは強い反発もあったが日本の裁判に服することで決着した。

 

 

③裁判

アメリカに住むジラードの家族が「裁判はアメリカでやるべき」と訴えを起こすが、当局は日本での世論の高まりを考慮して棄却する。

 

結局、ジラードは日本で傷害致死罪で起訴され、前橋地方裁判所で行われた裁判で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決が確定した。

 

 

 ジラード自身は、その酒癖の悪さや借金癖から兵士仲間からも軽く扱われる存在だった。

アメリカ軍を不名誉除隊した後、台湾生まれの日本人女性と結婚し当年度中に帰国した時も兵士仲間からブーイングが起きた。

 

被害者の遺族(夫と6人の子供)には補償金として1,748.32米ドルが支払われたが司法が売買された結果だと日本人の多くが捉え、被害者の夫も「感謝しない」と述べた。

 

なお、ジラードへの処罰を最大限軽く殺人罪でなく傷害致死罪で処断)することを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが1991年にアメリカ政府の秘密文書公開で判明した。

日本の外務省が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。  

 

この事件を機に基地を本土から離れ沖縄に集中していった。

 

 

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人違いバラバラ殺人事件

①事件発生

1954年9月6日埼玉県入間郡の畑で19歳女性のバラバラ遺体が発見された。

19歳女性は手拭いで絞め殺された後、加害者から身体を切断された。

肉片や手足を一夜のうちに畑や肥溜めなど殺害現場周辺のさまざまな場所にばら撒かれるという常軌を逸した行為を受けた。

死体の胴体からは乳房や陰部などがえぐられていた。

被害者女性の身元は前日夜から行方不明になっていた近隣に住むAさんだと判明した。

 

 

②犯人逮捕

1954年11月18日に埼玉県警は被疑者として古谷栄雄(当時29)を殺人及び、死体損壊・遺棄容疑で逮捕した。

古谷の供述によれば被害者とは面識は無く、自分が探していた女性と誤認して殺害したというものであった。

バラバラに切断したのは日頃のうっ憤が爆発したためであると主張した。

先ず、女性としての価値をなくすため、持っていたナイフ

で下腹部と乳房を切り取り、歩けないようにするために足を切断したと言う。

そして、逃走する際に肉片をばら撒いたというものであった。

 

 

③古谷が愛したB子

古屋は好意をよせていた年下の女性Bと1950年頃、地元である山梨県東山梨郡塩山町 (現在の甲州市)のダンスホールで出会った。

しかし、Bの優しさゆえ古屋は自分に対して好意を持っていると勘違いした。

そして、古屋の両親と共にBの実家へ行き、結婚を前提にした交際を申し入れた。

だが、古屋は定職につかず窃盗の前科があり、少年院に収容されていたこと、軽薄な性格であることは有名で、Bの両親も承知していた。

しかし古谷は定職に就けば交際を許してもらえると都合よく解釈し上京した。

しかし生来の性分のためか仕事は長続きせず職を転々とし、1年後の1953年7月に再びA子の両親の前に現れたが、そのような状況では古谷の申し出を許すはずも無かった。

そのためB子の両親は結婚は無理だと断り、埼玉県に住む姉のもとに避難させた。

当たり前にことだが、B子も古谷に対してうんざりしていた。

しかしFはA子が自分に対して好意を持っているはずだと完全に勘違いしており現在でいうストーカーという化け物に変貌を遂げ埼玉に向かった。

 

 

④勘違いが生んだ悲劇

バラバラ殺人事件を起こす4日前のことだった。そして、暗がりの路上で村の青年団の行事から帰宅途中の白いブラウスに黒いスカートを着用した無関係の女性をB子と誤認して凶行に及んだ。

一審の浦和地方裁判所は1956年2月21日、古谷に対し無期懲役を言い渡した。

最高裁も1957年7月19日に上告を棄却し死刑が確定した。

結局古谷は宮城刑務所に送致され1959年5月27日に死刑が執行された34歳であった。

Fは、収監中も同囚の者や看守に人違いで殺害した女性の遺体をバラバラにした際の残虐行為を

 

「B子を愛するが故にしたことだ」

 

などと周囲の者が辟易するのもお構いなく自慢げに繰り返し話していた。。。

 

 

古屋が最後に残した言葉

 

古屋栄雄「B子!もう一度会いたいよぉ・・・・」

 

 

はっきりいってしまえば勘違いで殺されたAさんはもちろん、残された遺族が不憫でしょうがない非常に悲しい事件。

正直死刑をしたところで遺族が救われるわけではないのだ。

 

 

 

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玉ノ井バラバラ殺人事件

①事件発生

1932年(昭和7年)、現在の東京都墨田区東向島4丁目から6丁目にかけて玉の井とよばれる私娼街があった。    
 
その玉の井のすぐ近くに、通称 「お歯黒どぶ」 という下水溝があり、動物の死骸などが遺棄されるなど非常に汚れた下水溝があった。
ヘドロまみれの光景はまるで、お歯黒の液を流したように黒く濁っていた。
 

1932年3月7日朝、そのお歯黒どぶで近所の幼女が下駄をそこに落としたので、親が棒でつついていたところ、底から血らしいものが滲むハトロン紙の包みが浮かびあがってきた。

 

午前9時頃、近くの長浦巡査派出所(寺島警察署管内)に通報があり、見張り勤務中の巡査が現場に行ってみたところ、同じような包みが2個あったので、ちょうど来合わせたもう一人の巡査とともに包みを引き上げて開いてみたところ、

 

1個は上胸部胴体で首と両手を鋸のようなもので切り取られており、

 

もう1個は腰部胴体で両足を切り取ったものであった。

 

また反対側の溝からも、同じような紙包みの男の首が発見された。

 

急報を受けて寺島警察署からは浦島署長自らが出動。

更に本庁からも捜査第一課長および鑑識係長が応援に駆けつけて検証した結果、この3つの包は同一人物で、撲殺死体であると判明した。

 

しかし指紋採取のために必要な手足部分の遺体は発見できず、また発見された部分についても、死後1ヶ月ほど経過した上に下水に漬かっていたことから、人相は著しく変わっており、右上の犬歯が八重歯であることと、額が富士額であるという2点がかろうじて特徴として認められるのみであった。

 

このことから被害者の身元判明にも難渋し、寺島警察署に設置されていた捜査本部も4月28日には解散し、事実上は捜査打ち切りの状態となっていた。

事件の難航、そしてまだつかまらぬ犯人のために、玉の井は壊滅的な被害を受けていた。

娼婦目当てにくる一日の客は1万人と言われていたが、この事件発生後、約3分の1に減り、その周辺の酒場、めし屋などまでダメージを受けた。

マスコミや玉の井からの重圧もあり、捜査本部も懸賞金を出すことになった。
しかし犯人どころか被害者の身元もわからないままだった。

 

玉の井のバラバラ事件は、誰もが迷宮入りかと思っていた。
しかし事件は急展開を迎えることになる。

 

 

 

②犯人逮捕

26日、東京水上警察署に対して特に捜査継続の要請を行った。

これを受けて27日、水上警察署長は全署員に対して、事件発覚当時の手配指示通達を再度引用して訓示を行った。

枕橋巡査派出所の巡査は、この訓示を聞いてそのまま派出所勤務についたが、

勤務中、訓示にあった被害者の特徴が、3年前に不審尋問をしてあれこれ面倒を見てやった女児連れのホームレス男性と一致することに思い当たった。

 

巡査はその親子の名前と本籍地を記録しており、直ちに署長に申し出た。

署長は、直ちに同署の刑事2名に特命し巡査が世話を焼いてやったホームレス男性千葉龍太郎の所在調査を開始した。

 

警視庁の各署に対して電報で照会したところ本富士警察署より、

同姓名のものが本郷区湯島新花町の長谷川市太郎と同居ありとの回答を受けた。

 

刑事たちは直ちに長谷川を訪問したところ、女児は今もいるものの、

 

「千葉は2月初めごろ、田舎で金を都合してくると言って、娘を置いて出掛けたきり帰ってこない」

 

と言った。

 

長谷川に案内されて千葉の所在を訪ね歩いたものの、千葉自身はおろか、千葉を知っているものすら見つけることはできなかった。

 

並行して長谷川の身辺調査を行ったところ、千葉と長谷川は金銭上の問題から大喧嘩をしていたことが判明、改めて長谷川を本署に連行して追及したところ、犯行を自供した

 



 

③犯行経緯

長谷川は、妹と弟とともに被害者の千葉龍太郎を自宅本郷湯島新花町で殺害し、遺体をバラバラにし遺棄した。

供述から被害者の両手足は弟の勤務先の東京帝国大学の印刷所の空室の床下から

胴体中央部は王子の陸軍火薬庫裏のどぶ川から発見された

事件前年の4月下旬頃、長谷川は浅草公園で子連れホームレスの千葉と知り合った。

秋田県の地主の息子だという話を信じて、長谷川は家族ぐるみで千葉に近づき、娘ともども自宅に同居させるとともに汐留駅の仲仕という仕事も世話してやった。

しかし実際には千葉は一文なしで、貧しい犯人宅に居座ってしまった。

 

追い出そうとすると

 

警察に訴えるぞ!!」 ※(長谷川は春画を描いて生計を立てていたため)

 

と一家の弱みに付け込んで脅迫を行い、働かず酒を飲んでは兄妹に暴力を振るうようになった。

そのため、一家は次第に千葉に殺意を抱くようになっていった。

長谷川と弟は千葉の殺害を決意し、スパナとバットを準備して機会を伺っていた。

長谷川と弟がスパナで千葉を殴って殺害。

なおこの時、同居していた長谷川らの母と、千葉の娘は銭湯に行っており、不在であった。

 

遺体を2日間にわたって兄弟2人でバラバラに切断した後、24日の午後7時頃、まず長谷川が腹の部分を風呂敷に包んで持ち出し、王子で遺棄した。

 

首と胸と腰の3つについては、3月6日午後8時頃、妹の手荷物を装い、タクシーで玉の井に運んで遺棄。手足については3月8日朝6時ごろ、前夜から宿直していた弟のところに持ち込んだものであった。

 

遺棄した時間帯が夕刻であったにもかかわらず、堂々と遺体を持ち運びして遺棄するといった大胆な行動の目撃者は皆無だった。

バラバラにした動機は猟奇的指向ではなく単に遺体の運搬をしやすくするためであったといえる。

 

当初長谷川は弟妹をかばうべく、自分の単独犯行であると主張した。

そして千葉の遺体をバラバラにした心理を

 

「この足で母を蹴った、この手で妹を殴り、弟を殴った。こうしてやるぞ、こうしてやるぞと歯軋りしながらやった」

 

と供述した。

1934年8月6日

東京地方裁判所は長谷川市太郎に殺人罪と死体損傷、遺棄罪で懲役15年

弟に殺人罪で懲役8年

妹は死体損壊および遺棄幇助罪で懲役6ヶ月を言渡した

兄弟は控訴し、1935年12月17日に長谷川は懲役12年、弟は同6年の判決を受けて、服役した。

 

 

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おせんころがし殺人事件

①事件発生

1951年1月16日千葉県千葉市の民家で主婦と老婆を殺した容疑で栗田源蔵が逮捕された。事件内容が公表されると全国の警察から類似事件の問い合わせが殺到した。

粘り強い取り調べが続けられた結果下記の罪も犯していた。

 

 

1948年に静岡県の海岸で三角関係のもつれから愛人を絞殺したこと、

 

1951年に栃木県の民家で女性を強姦し絞殺したこと

 

その2か月後に10月10日には国鉄上総興津駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名を誘い出した。

日付が変わった翌日の深夜に長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。

被害者達は崖の途中に止まっていたが、栗田は被害者達を石で殴打し殺害した。

長女だけは隠れていたため奇跡的に生き延びることができた。

 

そして1952年1月13日、千葉県千葉群検見側(現在の千葉市花見川区)で主婦と叔母が殺され、主婦は屍姦された。

この事件の捜査の際に指紋が検出され、これによって栗田源蔵が割り出されて逮捕された。

 

 

②判決

1952年1月13日の事件で千葉地裁で1952年8月13日、死刑の判決が下された。

1953年12月21日には宇都宮地裁で他の件に関して死刑の判決が下された。

一審で2回の死刑判決を受けた初の例である。

その後、控訴は取り下げ、宮城刑務所仙台拘置支所に押送された。判決後の栗田は衰弱がひどく、再審を繰り返した

 

1959年10月14日に宮城刑務所において、栗田の死刑が執行された。

 

 

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最強の冤罪事件、八海事件

①事件発生

1951年1月24日深夜

山口県熊毛郡麻郷村八海で瓦製造業を営む夫婦(ともに当時64歳)が殺害され金銭が奪われる事件が発生した。

 

 

夫は寝室の中で顔や全身を刃物でメッタ斬りにされ、胸を鈍器で殴られて殺害され、妻は首を吊った状態で発見された。

 

 

警察はころを首吊り自殺に工作をした殺人だと見破りった。

警察の捜査の結果、窃盗の前科があって金に困っており、被害者夫婦とも面識があった経木製造業の吉岡晃を逮捕した。

 

吉岡が着ていたジャンパーには被害者夫と同じB型の血液型が付着していたことや、事件後に吉岡がタクシーや遊郭で使った十円札と続き番号の十円札が被害者宅に残されていたこと等の物証が存在した。

 

吉岡は同日の調べに対し、自分1人で夫婦を殺害し金を奪い、さらに犯行を夫婦喧嘩に見せかけるために現場を偽装したと供述、単独での犯行を主張した

 

 

②複数の犯人

しかし、事件は解決しなかった。

現場の状況から複数犯だと考えた警察は吉岡に共犯者の名前を追及するため激しい拷問を行った。

吉岡は共犯者がいれば自分の罪が軽くなると考え、遊び仲間で実際は犯行に加わっていない4人の名前を挙げた。

そのうち2人は窃盗の前科、1人は強盗と窃盗の前科があった。

 

その後、4人は取調室の密室で拷問を受け犯行を自供した。。。

 

 

 

③判決

1953年9月18日広島高裁は吉岡に無期懲役、他の4人は死刑、懲役15年などの有罪判決を下した。

裁判ではXは自らに関する起訴事実を認めた。

しかし4人は、捜査段階で警察官に拷問され虚偽の供述をさせられたため、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である、と主張した。

4人の公判はもつれにもつれた、ついに、、、

 

1968年10月25日、最高裁はこの事件を吉岡の単独犯行と判断。

4人に無罪判決を下して、この判決が確定した。

 

結局3度目の最高裁で4人に無罪判決が下った時はすでに逮捕から17年9か月の月日

が経過していた。

 

 

 

④吉岡晃

1971年(昭和46年)

無期懲役判決を受けて広島刑務所に服役していた吉岡は事件以来20年8ヶ月ぶりに仮出所となった。

吉岡は鉄工所に勤務しながら弁護士の事務所をたびたび訪問し、4人への謝罪行脚も行った。

その後、仮釈放中の吉岡は1976年に広島県で27歳の男性を絞め殺そうとした容疑で逮捕され、殺人未遂罪で起訴されて裁判中の1977年7月11日に49歳で病死した。

 

 

 

警察の先入観捜査と被疑者が犯人で間違いないという頭で取調べを決行してしまったがゆえに二度と戻らない約18年という大切な時間を奪った当時の警察は深く反省するべきであろう。。。

 

 

 

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築地八宝亭一家惨殺事件

①事件発生

1951年2月22日、築地の中華料理店八宝亭で

 

経営者(当時48歳)

妻(40歳)

長男(11歳)

長女(10歳)

一家4名が惨殺された。

 

「八宝亭」の現場となった6畳間は血の海と化していた。

遺体はすべて頭部を薪割り用の鉈で打ち割られており、刃が4人に対して50回以上も振り下ろされるなど、現場は凄惨な状況であった。

長女に至っては、犯人から逃げようとしていたところを後ろから襲われたのだろう。襖に手をかけたまま、犯人に鉈を振り下ろされて殺されたのが分かるほどだった。

 

 

※現場となった八宝亭

 

捜査の結果、現金4万円と残高14万円あまりの預金通帳、女物の腕時計、財布が奪われていた。

通報者は店の住み込み店員であった山口であった。

 

山口の証言では前夜に店に雇われた太田成子という女性が怪しい証言した。

 

「事件2日前から太田成子という20代半ばの小柄でパーマをかけた派手な女性が、女中見習いの貼り紙を見て、住み込みで働き始めた。

その女が事件当夜、親戚の者が止まりに来たので、今夜は泊めるといっていた。」

 

という山口の証言にすっかり誘導されてしまったのだった。

 

『八宝亭』で働く料理人・劉が

『そんな名前の派手な女中が居た』

と証言したことから、山口の証言は裏付けられることとなった。

これらの証言から警察はただちにその女のモンタージュ写真を作り捜査を始めた。

 

やがて警察に、太田成子に関する情報がもたらされる。

彼女が22日の午前9時過ぎ、都内の信用金庫に現れ、14万円の引きおろしに失敗したという。

そこで警察は「22日の午前4時ごろに、Oが仲間の男と犯行に及び、逃走した」と断定、彼女を全国に指名手配した。

 

一方で山口が凄惨な事件現場にいながらまったくの無傷だったこと、これだけの惨劇が起きたにも関わらず山口が気づかずに寝ていたという証言に矛盾を感じた捜査官もいた。また、彼が警察に直接通報しているなどの点が疑わしかったが、警察の捜査や新聞記者の質問に協力的し、各メディアの求めにも快く応じ「私の推理」という手記まで掲載され周囲から好印象をもたれていた。

 

 

②真犯人

太田成子が新宿の旅館で逮捕された。

太田成子は偽名で、彼女の本名は西野ツヤ子(24)

伊豆の漁師町の出身で妻子ある男性と不倫になり、父親からとがめられ、兄を慕い上京してきたが、金が底をつき、水商売をしていたというのだ。

その時、新宿で出逢ったのが山口だった。

西野は、お金がない事を山口に相談すると、八宝亭で働く事を教えてくれた、ここまではよかった。


しかし彼女が働き始めて2日目、物音がするので起きると、あの惨状が待っていた上、血まみれの遺体の上で鉈を手にした山口が鬼の形相で立ってたというのだ。


そして信金で全額預金をおろさないと、殺すぞと、脅したという。彼女は警察に捕まるというよりも山口に殺されるのが怖くてずっと逃げていたのだ。

 

西野の証言のウラが取れ、山口は築地署に連行されたが、その日の明け方、山口は留置場で青酸化合物を飲んで服毒自殺。

これにより犯行の動機や事件の詳細は永遠の謎となった。

 

 

鬼熊事件

①事件発生

1926年8月19日深夜、千葉県香取郡久賀村(現:多古町)高津原地区にある居酒屋「上州屋」にて岩淵熊次郎は愛人のKさんは寅松という男性と交際していたことを知りKさんの髪をつかんで、庭先に引きずり出し、暴行を加えたうえ、土間に積んであった薪をつかんで、何度も殴打し殺害した。

この際、Kさんの祖母にも頭などに重傷を負わせた。

 

 

 

 

②熊次郎暴走劇

その後、次に熊次郎は、寅松の父親の家へと走った。

寅松の父親は、熊次郎とKさんの仲を裂こうとした人物であり、

「熊次郎と別れて、息子の寅松と一緒になってくれ。」

などとKさんに言っていた人物である。Kと情夫の仲を取り持っていた知人の菅松の家を放火。

 

駆け付けた村の消防組員が消火しようとしたが

「火を消すと承知しないぞ」

と叫び、鍬を振り回して消火活動の邪魔をした。

この際、組員ふたりが鍬で殴られてけがを負った。  

続いて、駐在の向後国松巡査が事件の知らせを受けて出掛け、無人になっていた村の駐在所に熊次郎は侵入し、巡査が所有するサーベルを盗み出した。

 

 

熊次郎は盗んだサーベルを持って午前3時頃、次浦地区にある農家の岩井長松の家を訪れた。

岩井長松は熊次郎にとってKさん以前の女性問題で恨みを持っており殺意の波動をまとい家に突入してきた。

 

「ちょっと開けてくれ。急用ができた」

 

と声を掛けて戸を開けさせた。

何事かと顔を出した長松に熊次郎はいきなりサーベルで切り付け、悲鳴を上げながら表によろけ出て逃げようとしたところを追いかけて、さらに2~3回サーベルを長松に振り下ろして殺害した。

 

 

サーベルを持って、いったん自宅に戻って来た熊次郎だが午前4時ごろ、熊次郎の実兄清次郎宅近くの道に張り込んでいた多古警察署の山越信司巡査に見つかり、

「熊次郎、待て!」と声を掛けた。

熊次郎は持っていたサーベルで山越巡査の頭に切りつけ、格闘に。

捕縄で取り押さえられそうになったが、巡査の親指にかみつき

サーベルが切りつけ瀕死の重傷を負わせ、ひるんだすきに山林に逃げ込んだ。

 

それから40日以上にわたって警察官、消防団青年団など計5万人を動員し大捜査網を尻目に逃走劇を展開した。

 

 

熊次郎は

「鬼熊」

 

と呼ばれ、その名を広く世間に知らしめることになる。

 

9月12日、いったん山から降りて来た熊次郎は、ばったりと巡回中の警官に会い、この時も格闘の末にサーベルによって殺害している。 最終的に熊次郎が殺害した者は5人となり、そのうちの2人は警官だった。 

 

そんな恐怖の鬼熊こと熊次郎は村人たちから好かれていた。

 

逆に殺されたおけいや長松は

「色仕掛けでお客を引っ張る」

などと言われ、村の中でも嫌われ者の方であった。

 

それに加え、この時代、警官たちは庶民に対してかなり威張り散らしたり高圧的な態度をとったりしていた者が多く、庶民の大半が警察に反感を持っていた時代でもあった。

 

「嫌いな奴らを殺してくれた上に、警官まで殺してくれるとは、熊さんさすがじゃ」

 

 

こういった意識が多くの村人の中にあったらしい。

熊次郎に世話になった人、事件に対して

 

「よくやってくれた!!」

 

と思っていた村人たちが、熊次郎のために縁側に食べ物を置いておいたり、こっそりと泊めてやったり、食事を提供したりした。村ぐるみで熊次郎の逃亡を助けていたのである。 更に、警察に嘘の情報を流して捜査を混乱させたりもした。

 

 

③熊次郎の最後

大正15年9月28日

熊次郎は自殺を完全に決意。

 

9月29日

首を吊ったり首の動脈を切るなどしたが、死に切れなかった。

 

9月30日

熊次郎の兄や村人たちは、熊次郎から頼まれていた毒入りのモナカを熊次郎に手渡した。 熊次郎は、村人や新聞記者の立ち合いのもと、先祖代々の墓の前でそれを食べ、カミソリで再び首の動脈を切り、午前11時20分ごろようやく死ぬことが出来た。ただ、首の傷の方はそれほどの傷でもなかったらしく、直接の死因は毒物の方であった。

 

 

 

事件当時、新聞などのメディアでは、岩淵が自分を裏切った者に対する復讐として事件を起こしたと同情的な記事を掲載していた。

さらに、当時の警察官は一般人などに威張り散らした言動が多く、反感を買うことも多かったことから、警察官を殺傷したことも全国的な人気を得る一因となった。

加えて逃亡の末に自殺したことも潔い最期として賞賛されたという

 

事件後、岩淵を匿ったり自殺に立ち会った村人や新聞記者が裁判にかけられるが、自殺幇助となった記者や知人はいずれも執行猶予つきの温情判決が下され、村人たちも無罪とされた。

 

鬼熊は大正のダークヒーローだったのかもしれない。