玉ノ井バラバラ殺人事件

①事件発生

1932年(昭和7年)、現在の東京都墨田区東向島4丁目から6丁目にかけて玉の井とよばれる私娼街があった。    
 
その玉の井のすぐ近くに、通称 「お歯黒どぶ」 という下水溝があり、動物の死骸などが遺棄されるなど非常に汚れた下水溝があった。
ヘドロまみれの光景はまるで、お歯黒の液を流したように黒く濁っていた。
 

1932年3月7日朝、そのお歯黒どぶで近所の幼女が下駄をそこに落としたので、親が棒でつついていたところ、底から血らしいものが滲むハトロン紙の包みが浮かびあがってきた。

 

午前9時頃、近くの長浦巡査派出所(寺島警察署管内)に通報があり、見張り勤務中の巡査が現場に行ってみたところ、同じような包みが2個あったので、ちょうど来合わせたもう一人の巡査とともに包みを引き上げて開いてみたところ、

 

1個は上胸部胴体で首と両手を鋸のようなもので切り取られており、

 

もう1個は腰部胴体で両足を切り取ったものであった。

 

また反対側の溝からも、同じような紙包みの男の首が発見された。

 

急報を受けて寺島警察署からは浦島署長自らが出動。

更に本庁からも捜査第一課長および鑑識係長が応援に駆けつけて検証した結果、この3つの包は同一人物で、撲殺死体であると判明した。

 

しかし指紋採取のために必要な手足部分の遺体は発見できず、また発見された部分についても、死後1ヶ月ほど経過した上に下水に漬かっていたことから、人相は著しく変わっており、右上の犬歯が八重歯であることと、額が富士額であるという2点がかろうじて特徴として認められるのみであった。

 

このことから被害者の身元判明にも難渋し、寺島警察署に設置されていた捜査本部も4月28日には解散し、事実上は捜査打ち切りの状態となっていた。

事件の難航、そしてまだつかまらぬ犯人のために、玉の井は壊滅的な被害を受けていた。

娼婦目当てにくる一日の客は1万人と言われていたが、この事件発生後、約3分の1に減り、その周辺の酒場、めし屋などまでダメージを受けた。

マスコミや玉の井からの重圧もあり、捜査本部も懸賞金を出すことになった。
しかし犯人どころか被害者の身元もわからないままだった。

 

玉の井のバラバラ事件は、誰もが迷宮入りかと思っていた。
しかし事件は急展開を迎えることになる。

 

 

 

②犯人逮捕

26日、東京水上警察署に対して特に捜査継続の要請を行った。

これを受けて27日、水上警察署長は全署員に対して、事件発覚当時の手配指示通達を再度引用して訓示を行った。

枕橋巡査派出所の巡査は、この訓示を聞いてそのまま派出所勤務についたが、

勤務中、訓示にあった被害者の特徴が、3年前に不審尋問をしてあれこれ面倒を見てやった女児連れのホームレス男性と一致することに思い当たった。

 

巡査はその親子の名前と本籍地を記録しており、直ちに署長に申し出た。

署長は、直ちに同署の刑事2名に特命し巡査が世話を焼いてやったホームレス男性千葉龍太郎の所在調査を開始した。

 

警視庁の各署に対して電報で照会したところ本富士警察署より、

同姓名のものが本郷区湯島新花町の長谷川市太郎と同居ありとの回答を受けた。

 

刑事たちは直ちに長谷川を訪問したところ、女児は今もいるものの、

 

「千葉は2月初めごろ、田舎で金を都合してくると言って、娘を置いて出掛けたきり帰ってこない」

 

と言った。

 

長谷川に案内されて千葉の所在を訪ね歩いたものの、千葉自身はおろか、千葉を知っているものすら見つけることはできなかった。

 

並行して長谷川の身辺調査を行ったところ、千葉と長谷川は金銭上の問題から大喧嘩をしていたことが判明、改めて長谷川を本署に連行して追及したところ、犯行を自供した

 



 

③犯行経緯

長谷川は、妹と弟とともに被害者の千葉龍太郎を自宅本郷湯島新花町で殺害し、遺体をバラバラにし遺棄した。

供述から被害者の両手足は弟の勤務先の東京帝国大学の印刷所の空室の床下から

胴体中央部は王子の陸軍火薬庫裏のどぶ川から発見された

事件前年の4月下旬頃、長谷川は浅草公園で子連れホームレスの千葉と知り合った。

秋田県の地主の息子だという話を信じて、長谷川は家族ぐるみで千葉に近づき、娘ともども自宅に同居させるとともに汐留駅の仲仕という仕事も世話してやった。

しかし実際には千葉は一文なしで、貧しい犯人宅に居座ってしまった。

 

追い出そうとすると

 

警察に訴えるぞ!!」 ※(長谷川は春画を描いて生計を立てていたため)

 

と一家の弱みに付け込んで脅迫を行い、働かず酒を飲んでは兄妹に暴力を振るうようになった。

そのため、一家は次第に千葉に殺意を抱くようになっていった。

長谷川と弟は千葉の殺害を決意し、スパナとバットを準備して機会を伺っていた。

長谷川と弟がスパナで千葉を殴って殺害。

なおこの時、同居していた長谷川らの母と、千葉の娘は銭湯に行っており、不在であった。

 

遺体を2日間にわたって兄弟2人でバラバラに切断した後、24日の午後7時頃、まず長谷川が腹の部分を風呂敷に包んで持ち出し、王子で遺棄した。

 

首と胸と腰の3つについては、3月6日午後8時頃、妹の手荷物を装い、タクシーで玉の井に運んで遺棄。手足については3月8日朝6時ごろ、前夜から宿直していた弟のところに持ち込んだものであった。

 

遺棄した時間帯が夕刻であったにもかかわらず、堂々と遺体を持ち運びして遺棄するといった大胆な行動の目撃者は皆無だった。

バラバラにした動機は猟奇的指向ではなく単に遺体の運搬をしやすくするためであったといえる。

 

当初長谷川は弟妹をかばうべく、自分の単独犯行であると主張した。

そして千葉の遺体をバラバラにした心理を

 

「この足で母を蹴った、この手で妹を殴り、弟を殴った。こうしてやるぞ、こうしてやるぞと歯軋りしながらやった」

 

と供述した。

1934年8月6日

東京地方裁判所は長谷川市太郎に殺人罪と死体損傷、遺棄罪で懲役15年

弟に殺人罪で懲役8年

妹は死体損壊および遺棄幇助罪で懲役6ヶ月を言渡した

兄弟は控訴し、1935年12月17日に長谷川は懲役12年、弟は同6年の判決を受けて、服役した。

 

 

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