築地八宝亭一家惨殺事件

①事件発生

1951年2月22日、築地の中華料理店八宝亭で

 

経営者(当時48歳)

妻(40歳)

長男(11歳)

長女(10歳)

一家4名が惨殺された。

 

「八宝亭」の現場となった6畳間は血の海と化していた。

遺体はすべて頭部を薪割り用の鉈で打ち割られており、刃が4人に対して50回以上も振り下ろされるなど、現場は凄惨な状況であった。

長女に至っては、犯人から逃げようとしていたところを後ろから襲われたのだろう。襖に手をかけたまま、犯人に鉈を振り下ろされて殺されたのが分かるほどだった。

 

 

※現場となった八宝亭

 

捜査の結果、現金4万円と残高14万円あまりの預金通帳、女物の腕時計、財布が奪われていた。

通報者は店の住み込み店員であった山口であった。

 

山口の証言では前夜に店に雇われた太田成子という女性が怪しい証言した。

 

「事件2日前から太田成子という20代半ばの小柄でパーマをかけた派手な女性が、女中見習いの貼り紙を見て、住み込みで働き始めた。

その女が事件当夜、親戚の者が止まりに来たので、今夜は泊めるといっていた。」

 

という山口の証言にすっかり誘導されてしまったのだった。

 

『八宝亭』で働く料理人・劉が

『そんな名前の派手な女中が居た』

と証言したことから、山口の証言は裏付けられることとなった。

これらの証言から警察はただちにその女のモンタージュ写真を作り捜査を始めた。

 

やがて警察に、太田成子に関する情報がもたらされる。

彼女が22日の午前9時過ぎ、都内の信用金庫に現れ、14万円の引きおろしに失敗したという。

そこで警察は「22日の午前4時ごろに、Oが仲間の男と犯行に及び、逃走した」と断定、彼女を全国に指名手配した。

 

一方で山口が凄惨な事件現場にいながらまったくの無傷だったこと、これだけの惨劇が起きたにも関わらず山口が気づかずに寝ていたという証言に矛盾を感じた捜査官もいた。また、彼が警察に直接通報しているなどの点が疑わしかったが、警察の捜査や新聞記者の質問に協力的し、各メディアの求めにも快く応じ「私の推理」という手記まで掲載され周囲から好印象をもたれていた。

 

 

②真犯人

太田成子が新宿の旅館で逮捕された。

太田成子は偽名で、彼女の本名は西野ツヤ子(24)

伊豆の漁師町の出身で妻子ある男性と不倫になり、父親からとがめられ、兄を慕い上京してきたが、金が底をつき、水商売をしていたというのだ。

その時、新宿で出逢ったのが山口だった。

西野は、お金がない事を山口に相談すると、八宝亭で働く事を教えてくれた、ここまではよかった。


しかし彼女が働き始めて2日目、物音がするので起きると、あの惨状が待っていた上、血まみれの遺体の上で鉈を手にした山口が鬼の形相で立ってたというのだ。


そして信金で全額預金をおろさないと、殺すぞと、脅したという。彼女は警察に捕まるというよりも山口に殺されるのが怖くてずっと逃げていたのだ。

 

西野の証言のウラが取れ、山口は築地署に連行されたが、その日の明け方、山口は留置場で青酸化合物を飲んで服毒自殺。

これにより犯行の動機や事件の詳細は永遠の謎となった。