富山市池多駐在所襲撃事件

本日1月24日水曜日は

今から約5年前の2019年にて

富山市池多駐在所襲撃事件が発生した。

 

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①事件発生

2019年1月24日午後3時ごろ、富山市にある富山西警察署池多駐在所にて拾得物を届けに来たと装って駐在所を訪れた大学生が居合わせた警察官を襲撃。

 

大学生はハンマーで警官の頭を殴り、ナイフで顔を切りつけたが、警官側も反撃して男を取り押さえ殺人未遂の現行犯で逮捕した。

 

 

 

 

②事件の経緯

富山地方検察庁は動機について

 

「恋人にふられ、強い喪失感から警官を襲って拳銃を奪い、自殺しようと思い立った」

 

ことを指摘。

強固な意志に基づき襲ったことを指摘した。

弁護士は、鑑定留置で大学生が自閉症スペクトラム障害と診断されており

 

「他人とうまく関係がつくれず、長年、自殺願望があった。拳銃を奪うのが目的で、警官を殺害しようとまでは考えていなかった」

 

と述べた。

 

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③判決

裁判官は元大学生に対して

「身勝手な動機による犯行」

と言及した上で、懲役14年を言い渡した。

 

元大学生側は刑が重すぎるとして控訴。

控訴審では弁護側が自閉症スペクトラム障害の評価に誤りがあるとして主張した。

 

2020年7月7日

名古屋高等裁判所金沢支部は、懲役14年とした一審判決を破棄して懲役12年に減刑した。

 

 

 

 

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銀座弁護士妻子殺人事件

本日1月18日木曜日は

今から68年前の1956年1月18日にて

東京都中央区銀座で強盗殺人事件が発生した。

 

 

 

①事件発生

1956年1月18日13時

東京・銀座の第二東京弁護士会副会長

磯部常治(当時61歳)の自宅にて

 

妻(当時52歳)の絞殺体

大学4年生の次女(当時22歳)の刺殺体

 

を帰宅した三女が発見し警察に急報した。

 

築地署員が駆けつけ捜査を開始したところ、同家は1階から3階にかけて物色された痕で荒らされており妻はネクタイで絞殺されており、階下にいた次女は鋭利な刃物で胸や肩など8か所にわたり刺されており、現金、六法全書、衣類などが盗み出されていることから怨恨ではなく金目当ての強盗とみて付近の聞き込み捜査を始めた。

 

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②犯人自首

その2日後の1月20日に窃盗などで

 

前科2犯

別府敏男(当時27歳)

 

が逃亡先の名古屋で警察に自首し現行犯逮捕された。

 

 

 

③事件の経緯

別府敏男は被害者宅の近くにある中華料理店に勤めており、何回か出前をしていた関係で被害者の磯部常治とは顔見知りであった。

 

別府は中華飯店で知り合った女性と結婚しようと考えた。

だが、自分の給料では結婚など出来ず、以前出前に行った副会長宅への強盗を計画した。

 

別府は副会長宅に入り2階にいた妻をネクタイで絞殺し、金品を盗みだして玄関から出ようとしたところにちょうど帰宅した次女と鉢合わせてしまった。

このため別府は台所にあった包丁で次女を刺し殺した。

 

しかし別府は犯行後の良心の呵責に耐えかね警察に自首した。

 

 

 

 

④判決

1956年11月20日

東京地裁は別府に死刑を言い渡した。

別府は控訴せず、同年12月5日に死刑が確定し、1960年に死刑が執行された。

 

 

 

 

この事件で妻子を失った磯部は

 

自分自身が犯罪被害者となったが、私は死刑廃止を支持する。囚人にも親や兄弟がいる。

 

と発言し、死刑廃止を堅持した。

 

 

 

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ホテル日本閣殺人事件

①事件発生

1958年2月頃から栃木県塩原温泉のホテル日本閣で経営Kさんの妻Uさんの姿が見えなくなった。

年末にはKさんの姿も消えた。

経営者夫婦は殺されたとの噂が流れ、栃木県警は捜査を開始した。

1961年2月、ホテルの床下からKさんの遺体が見つかり、付近の山林からUさんの白骨遺体が発見された。

 

 

②犯人逮捕

共同経営者としてホテルに住んでいた小林カウと従業員の大貫光吉が逮捕された。

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③事件の経緯

1958年、主犯の小林カウは当時栃木県塩原温泉郷に存在した「ホテル日本閣」が経営難から競売にかけられるという噂を耳にする。

自身で旅館を経営したいと考えていた小林はホテル経営者男性の元へ赴くが、経営者に断られる。

しかし同年末に経営者が小林の元を訪れ、現在の妻と離婚するための手切れ金50万円を出せば自身の妻にして旅館の共同経営者にするという条件を出す。

小林は30万円に値切るが経営者の妻は30万円では足りないと離婚を断ったため、経営者と小林は妻の殺害計画を立て、

1960年2月8日に殺し屋として雇った大貫に妻を殺害させる。

遺体は土間の地下に埋められ行方不明とされた。そして経営者の妻となったは小林は過去に貯めてきた200万円を旅館の増築にあてた。

しかし、経営者は旅館の名義を小林の名前にするという約束を反故にし、その上旅館には多額の借金があり競売にかけられる寸前という状況に陥っていたという事実を明らかにする。

そこで小林は大貫に、「経営者を殺してくれたら、夫婦になってホテル経営をしよう」と持ち掛ける。

1960年12月31日に大貫が経営者の首を絞め、小林が包丁でとどめを刺す形で殺害され、遺体は床下に埋めた。

 

 

 

④判決

1963年8月に宇都宮地方裁判所で審理された結果

小林カウは死刑

大貫光吉に無期懲役の判決が下る。

 

 

1966年7月14日

最高裁(裁判長:長部謹吾)で被告の上告を棄却し両者の死刑が確定した。

 

 

1970年6月11日に両者の死刑は執行された。

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小林カウは戦後では初めて死刑を執行された女性死刑囚となった

 

 

ちなみに小林カウは逮捕後の供述で大貫も殺害する予定だったと語っていた。。。

 

 

 

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スチュワーデス殺人事件

①事件発生

1959年(昭和34年)3月10日の午前7時40分頃

東京都杉並区の善福寺川大宮八幡宮近くの宮下橋)下流にて

英国海外航空の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が2日前から行方が分からなくなっていたが水死体で発見された。

 

 

 

②事件の経緯

はじめは自殺と認定されたが、翌11日に慶應義塾大学病院での司法解剖の結果、死因は絞殺と判明し、女性の膣内や下着からは男性の精液が検出された。

そのため、他殺(扼殺)の疑いが高いとして捜査が開始された。

 

 

 

③ベルメルシュ・ルイズ神父

被害者の交友関係から、

カトリックのベルギー人宣教師ベルメルシュ・ルイズ神父(当時38歳)

が捜査線上に浮かんだ。警察は、2人が原宿の宿に入った事実が確認されたことから、ルイズ神父の取り調べを行った。

 

 

弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとでの事情聴取が、第1回目が5月11-13日に、第2回目が20日、22日と計5日間に渡って行われたが進展はなかった。

6月11日、神父は病気療養のため、正規の出国手続を経てベルギーに帰国した

 

出国の許可にあたっては、警察は正規の出国手続きが取られていたことを把握していながら、外交的な措置を求めるだけの証拠を提示できず、神父の出国が許される結果となった。

この問題は国会でもとりあげられた。

 

 

④時効成立

事件は解決のめどの立たないまま、1974年(昭和49年)3月10日、遺体発見から15年が経ったこの日、事件は公訴時効を迎えた。

 

 

 

 

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日本最後の仇討ち

本日12月17日は臼井 六郎という士族が日本史上最後の仇討ちを行った。

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慶応4年(1868年)

5月23日

風雨が強いその日の深夜、一家が就寝中の臼井邸に忍び込んだ千城隊の手により、

 


父・亘理

母・清子

が惨殺された。

 


激しい妹の泣き声と騒々しい物音で起き出してきた11歳の六郎は、両親が殺害され、隣室で寝ていた3歳の妹・つゆが怪我を負った事を知らされる。

 


両親の寝所に入る事を禁じられ、夢ではないかと呆然としていた所、縁側に張り付いた長い髪の毛と血に染まった骨を見つける。

 


父母が本当に殺された事を悟った六郎は、その骨と髪の毛を取り集めて紙に包みながら父母の寝所に至った。

 


そこには身体が肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿があった。

 

 

 

六郎は仇の氏名を知ろうとするも、そのすべもなく悲嘆していた。

同年9月頃、通っていた稽古場で干城隊の山本克己の弟・道之助が級友3、4人を相手に自慢話をしているのを偶然聞いた。

 

 

 

兄の克己が家伝の名刀を持ちだし臼井亘理を斬殺して、名刀の歯を欠けさせたのだという。

 


六郎は養父に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出た。

 


しかし養父は

 


「復讐は大昔から国の大禁である。己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決める事だ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」

 


と堅く戒めた。仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 


1876年(明治9年

 


19歳になった六郎は三奈木小学校の教師となる。

 


一刻も早く東京へ向かいたい六郎はその3ヶ月後、親族の木付篤が上京する事を知って、養父に東京に出て新しい学問を学びたいと申し出る。

 


同行者もいる事から東京行きを許され、8月23日、父の形見の短刀を密かに携えて木付と共に秋月を旅立った。

 


東京へは勉学修業といいながら、目的は一瀬直久と改名した仇の山本克己の居所を探る事であった。

 

 

 

 

 

 

1880年明治13年

11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、一瀬が東京上等裁判所に転勤し本芝3丁目に住んでいる事を知る。

 

 

 

六郎は一瀬を見つけると右手の短刀を抜いて喉元目がけて突き刺した。

その喉を突き、さらに動脈を切断してとどめを刺した。

上京して4年、事件の日から13年目に六郎は本懐を遂げた。

 

 

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自首した六郎は取り調べののち、裁判にかけられた。

 


1881年明治14年

9月22日、裁判により終身刑を宣告。

 

 

 

1889年(明治22年

大日本帝国憲法から恩赦を受け、12月6日、本刑に一等を減ぜられ、禁獄10年に減刑となった。

 

 

 

1891年(明治24年

9月22日、34歳で釈放。

 

 

 

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ルネサンス佐世保散弾銃乱射事件

本日12月14日木曜日は

16年前の2007年12月14日にて

長崎県佐世保市名切町のスポーツクラブ

ルネサンス佐世保にて銃乱射事件が起きた。

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①事件発生

2007年12月14日19時10分ごろ、スポーツクラブのルネサンス佐世保に散弾銃を持った男Xが入店した。

 

Xはプールに直行すると、無言で散弾銃を発砲し始めた。

 

プールで小中学生を指導中だった女性インストラクター倉本舞衣さん(当時26歳)

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は、生徒を誘導して事務室に逃げ込もうとしたが、先回りしたXは水着姿の倉本さんに向けて至近距離から発砲し、左脇腹に致命傷を負わせた。

 

さらに、ロビー近くで犯行を制止しようとした藤本勇司さん(当時36歳)

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にも数発発砲した。倉本さんと藤本さんは、運ばれた病院で死亡が確認された。

 

 

犯人は発砲後裏口から逃走した。

迷彩服姿、身長180cm超という目撃証言から、犯人はアメリカ兵ではないかという憶測もあった。

しかし警察が目撃者や関係者から情報を収集した結果。

佐世保市内に住む当時37歳の無職の男

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馬込政義が被疑者として浮上してきた。

 

 

連続発砲事件であったことから、長崎県警察銃器対策部隊と福岡県警察SATが出動。

警察が馬込の行方を追っていたところ、15日1時ごろ、馬込が所有する乗用車(三菱・デリカD:5)が発砲現場から約4km離れたカトリック船越教会の前の道路上に停まっているのを発見した。車内には誰もいなかったが、

 

 

散弾銃2丁と空気銃1丁と迷彩服が見つかった。

警察の記録によると容疑者は散弾銃を3丁所持していることから、警察はもう1丁の散弾銃を携え付近に潜んでいるものと見て、周辺の警戒と捜索に当たっていた。

 

 

15日5時44分、教会から発砲音が聞こえたことから、警察が教会の敷地内を捜索したところ、7時35分ごろ、行方を追っていた馬込容疑者が散弾銃を持ったまま首から血を流して倒れているのが発見された。

馬込は既に死亡しており、警察は自殺と判断した。

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②犯行動機

被疑者が自殺したため、動機の解明は難航した。

当初は無差別殺人かと思われていたが、事件時たまたま客としてプールにいた、女性インストラクター倉本さんの交際男性を押しのけ、他の人に目もくれず倉本さんを狙撃していることから、警察は最初から倉本さんを計画的に狙った犯行と断定した。

馬込は数年前からルネサンス佐世保ウェイトトレーニングをしており、殺害した倉本さんに一方的な恋愛感情を抱いていたと見られている。

 

 

 

③判決

2008年2月2日、馬込は殺人等の容疑で書類送検された。

3月5日、長崎地方検察庁佐世保支部は被疑者死亡を理由に馬込を不起訴とした。

 

 

 

犯人は自殺してしまったために法で裁かれず、動機も仮説でしか説明できず完全に解明されることもない。

死亡した被害者2人はもちろん、残された遺族はやり切れない、、、

 

 

 

 

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小松川女子殺人事件

①事件発生

1958年8月20日、新聞社に若い男の声で

 

江戸川区のOさんを殺し、死体を小松川高校の穴に投げ込んだ」

 

という内容に電話がかかってきた。

 

Oさんが3日前から行方不明である事実を確認した警察は、高校周辺を捜査。

だが遺体は発見されなかった。

 

翌日、警察に犯人を名乗る電話があり

 

「遺体は高校の屋上にある」

 

と告げた。

 

その言葉通り、屋上の防護壁の横穴から腐乱したOさんの遺体が発見される。

 

その後犯人は、

被害者宅や警察に遺品の櫛や手鏡を郵送した。

さらに読売新聞社へは反響を楽しむかのように30分にも及ぶ電話をかけた。

その際警察はその逆探知に成功した。

 

電話をかけてきた公衆電話ボックスには間に合わず、身柄は確保できなかったが、そこで電話をかけていた男の目撃証言は得られた。

 

この時の通話は録音されラジオで犯人の声が全国に放送された。

「声が似ている」という多くの情報が寄せられ、その中から有力な容疑者が浮かび上がった。警察は録音した犯人の声をラジオで流し情報提供を始めた。

 

 

 

②犯人逮捕

小松川署捜査本部は9月1日に工員で同校定時制1年生の男子学生

李 珍宇(イ・チヌ、当時18歳)を逮捕した。

 

犯人の李は東京都城東区(現:江東区)亀戸出身の在日朝鮮人であり、窃盗癖もあった。図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けていた。

 

李は、犯行当日プールで泳ごうと思い同高校に来たところ、屋上で読書をしている被害者を発見。彼女をナイフで脅し強姦しようとする。

 

しかし大声を出されたため殺害し屍姦、遺体を屋上の鉄管暗渠に隠した、と自供。

また彼は4月20日にも、23歳の賄い婦を強姦し、殺害。その後も屍姦したと自供した

※強姦については法廷では否認、検察によって導かれた供述であるとした

 

李が「悪い奴」という小説を書き、読売新聞社の懸賞に応募していたことが後に判明した。

この小説は、クラス費を盗んだことを山田という同級生に言いふらされ、就職してからもそれを密告され職場を逐われた主人公が、彼のことを殺害するという筋書きであった。

その殺害の状況は、4月の事件を基にしているのではないかと報道では書き立てられた。 逮捕前、一部の新聞により実名報道が行われたことから、少年法の問題が議論された。

 

李は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。

二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。

 

1962年8月、李は東京拘置所から宮城刑務所仙台拘置支所に移送され、同年11月16日に宮城刑務所にて死刑が執行された。享年22。

 

 

 

 

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