上連雀二丁目 居酒屋チェーン副店長強盗殺人事件

本日11/25は2005年にて

 


上連雀二丁目

居酒屋チェーン副店長強盗殺人事件

 


が発生

 


東京都三鷹市居酒屋副店長の55歳男性がで包丁で殺害される事件が発生した。

被害者は真面目な性格であり、いつも定刻通りに出勤していたが、この日、全く連絡を寄せずに仕事を休んだ。そのため、身を案じた社員がアパートを訪れた所、殺害された副店長を発見した。

 

 

警視庁は被害者と同居をしていた無職の男(事件当時49歳)を指名手配した、この男は定職に就かず、知り合いの家を転々とする生活を送り、3ヶ月前に知人であった被害者宅に転がり込み、被害者の収入を当てにして金をせびり続けるという怠惰な生活を送り続けていた元暴力団関係者であった。

 

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帝銀事件

①事件発生

1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店に都の職員を名乗る男が支店長を訊ねてきた。

男は支店長に集団赤痢が発生した旨を伝えると職員を集めて持参した予防薬を

飲むよう指示した。

そして自ら薬を飲んで手本を見せた後、すぐに職員たちに服用させた。

その直後、職員たちは次々と嘔吐して倒れ12人が死亡



男はそれを見ながら近くに置いてあった現金と小切手を奪い逃走した。

犯人は現金約16万4410円

安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行)板橋支店の金額1万7450円の小切手

を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて

初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。

なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を

確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。



②犯人

事件発生から七か月後、警察は画家の平沢貞通を逮捕した。

平沢は一貫して犯行を否認していたが警察は暴行まがいの尋問で自白を強要。

精神的に疲弊した平沢は罪を認め起訴された。




③平沢貞通

平沢は二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選

する一流の画家であった。

実力派の画家としての地位を確立していた平沢は突如、帝銀銀行の犯人として警視庁に逮捕された。

平沢は取調べで自白をしたが、公判で無実を主張。

しかし平沢は、虚言癖や記憶障害や判断力低下をもたらす

コルサコフ症候群(狂犬病予防接種の副作用)にかかっており帝銀事件の自白もコルサコフ症候群による虚言ではないかと指摘する意見がある。

公判では6人もの証人が平沢のアリバイを証言するなど平沢が無実である証拠がいくつ

も上がった。



④判決

1950年7月24日、東京地裁で死刑判決。




⑤その後

平沢が逮捕されて以来、平沢の妻子と幼い孫は、世間からの心ない迫害と

マスコミの非常識な取材攻勢にさらされた。

平沢の家族は平沢姓を捨て、素性を隠して生きることを余儀なくされた。

1962年(昭和37年)作家の森川哲郎は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げた。

平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。


平沢は獄中で無実を訴え続けた。

長年宮城刑務所に収監されていたが、その後高齢のため体調を崩し八王子医療刑務所

に移送。

1987年5月10日午前8時45分にで肺炎を患い獄中で病死した。95歳没。


冤罪の可能性が高い事件であった。。。

寿産院事件

①事件発生

1948年1月12日夜、新宿区弁天町の路上で4つの木箱を持った葬儀屋をパトロール中の警官が尋問した。

箱を開けてみると、なかから5体の乳児の遺体が発見された。

葬儀屋を取り調べると寿産院から遺体一人につき500円を貰って埋葬しており、これまでに30体以上の乳児を処理していたことを自供した。

遺体を解剖した結果、死因は3人が肺炎と栄養失調2人が凍死と判明した。

 

②犯人

①石川ミユキ

 


②石川猛

 

 

事件の主犯格は妻の石川ミユキである

石川ミユキは、1897年(明治30年)2月5日生まれ

宮崎県東諸県郡本庄村出身

宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京

1919年9月30日に東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を卒業し当時の女性としては非常に高い学歴を身に付けた。

内務省指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し同年11月12日に東京府の産婆名簿に登録された。

その後は日本橋や牛込で30年余りにわたり産院を経営していた

 

 

③犯行内容

1月15日寿産院の会長で助産婦の石川ミユキとその夫の石川猛が逮捕された。

ミユキは約4年間にわたり始末に困る私生児を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院の事業を始めた。

 

当時は堕胎罪により人工妊娠中絶は厳しく制限されていた。

私生児を預ける母親は戦争未亡人、ダンサー、女給、娼婦などであった。

 

新聞の三行広告を掲載し、養育料として2千円から1万円を受け取った上で子供を引き取り子育てに困っている親から養育費を受け取って乳幼児をもらい受け、もらい手からは謝礼を取っていた。

 

また、乳幼児用の配給品などを闇市に流し事件発覚までに90万円とも100万円ともいわれる巨額の利益を手にし儲けていた。

 

預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、

預かった子供には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。

このようにして、「売れ残り」の大部分は栄養失調症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに凍死させた。

 

 

④判決

1952年4月28日、東京高裁で主犯格の石川ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が下った。

 

 

 

 

 

小平義雄連続殺人事件

①事件発生

1946年8月17日午前11時頃、東京都芝区(現、港区)の増上寺境内の雑木林から女性の腐乱死体と白骨死体が相次いで発見された。

その後腐乱死体の身元は6日から行方不明となっていたAさんと判明。

 

②犯人

警察はAさんと顔見知りの小平義男を逮捕。

小平はAさんを強姦したあと殺害したことを自供。

さらに10件の強姦殺人を認めた。戦後食料難の時代、小平は食料などをエサに女性の弱みにつけこみ連れだし犯行を重ねた。

 

 

③判決

取り調べに対して小平は犯行の様子を得意満面に説明した。

強姦だけでも30件以上の犯行をにおわせたが自供した10件のうち3件は証拠不十分で不起訴になる。

 

1948年11月16日最高裁で小平の死刑が確定した。

 

翌年10月5日、刑が執行された。

 

鈴ヶ森おはる殺し事件

①事件発生

 

1915年4月29日夜、品川区大森の鈴ヶ森で砂風呂屋の娘おはるが旅館と隣接する鬼子母神堂の敷地内で他殺体となって発見された。直接の死因は窒息死だが、死後に鋭利な刃物で目と喉頭をえぐられており陰部に5か所の傷があったため痴情のもつれによるものとみられた。

 

②逮捕

まもなく、おはるさんの愛人であったK(当時36歳)が逮捕された。Kは妻子がありながら、2・3年前から被害者との関係を続けていたが、最近になって被害者の側から別れ話を切り出され、悶着の末、40円の手切れ金を取って別れていた。

しかしまだ未練が残っており、折を見てよりを戻そうと考えていた。

捜査員の厳しい追及に耐えかねて、5月30日になって、Kは犯行を認めた。自白によると、事件当日は、友人と浅草で酒を飲んだのち、ふと思い立って砂風呂旅館に被害者を訪ね、一杯飲みながら連れ出して言い寄った。しかし被害者が拒んだことから喧嘩となり、暴れて騒ぐおはるを黙らせようと後ろから抱きついて左手を首にかけて右手で口を抑えていたところ、死んでしまっていた。殺すつもりではなかったため驚いたが、復縁の見込みがないならいっそ殺してしまおうと考え、持っていたナイフで遺体を損壊したうえで、ナイフは海に捨てて逃げ帰ったおはるの遺体を海に遺棄しようとするが、重くて鬼子母神堂の敷地内までしか運べず、そこで陰部などを突き刺して恨みを晴らして逃げた、というものであった

 

 

③真犯人

公判が続くなか別件で逮捕されていた石井藤吉がおはるさん殺しを告白した。

鈴ヶ森おはる事件も自分がやったと言い出したことで、様相は一変した。

 石井の自白によると、盗みに入る家を物色しながら横浜から東京に向けて歩いている途中、午後9時ごろに鈴ヶ森を通りがかり、掛け茶屋の床机に腰掛けて一休みしているところに、目の前を女が一人で通り過ぎた。

彼女こそおはるであった。

周囲に人通りもなかったことから、石井は強姦しようと襲いかかったものの、被害者に騒がれたことから絞殺した。懐の財布から現金を奪って草むらに捨てたのち、痴情のもつれで殺人が起こったように見せかけるため、陰部など刃物で突き刺した、というものであった。

 

石井の供述した草むらから女物の財布を発見した。

これを家人に見せたところ、風雨のために色が褪せているが、材質や型は被害者の常用品と合致するとの証言が得られた。これを受けてKは釈放され、石井が真犯人として起訴された。

 

石井は

「鈴ヶ森事件の犯人が逮捕され、いずれ死刑になることを知った。私が黙っていれば無罪の人間が死刑となってしまっては可哀想だ。数え切れないほどの罪を犯してきたが良心はある」

と述べた。

手口が同一で凶器のナイフが一致したため石井は起訴された。

同一の事件で別々の犯人2人が起訴されるのは前代未聞だった。

 

 

④裁判の判決

石井の自白に信用性がないとしておはるさん殺害では無罪が下った。

これに対して、検事側が直ちに控訴したのは当然のことであったが、被告石井も有罪を主張して控訴したことから、大いに話題となった

1918年3月30日、東京起訴院は石井を真犯人として認め死刑判決を言い渡した。

 

同年8月17日にて死刑執行

 

その1ヶ月半後、Kさんに無罪判決が下った。