日本最後の仇討ち
本日12月17日は臼井 六郎という士族が日本史上最後の仇討ちを行った。
慶応4年(1868年)
5月23日
風雨が強いその日の深夜、一家が就寝中の臼井邸に忍び込んだ千城隊の手により、
父・亘理
母・清子
が惨殺された。
激しい妹の泣き声と騒々しい物音で起き出してきた11歳の六郎は、両親が殺害され、隣室で寝ていた3歳の妹・つゆが怪我を負った事を知らされる。
両親の寝所に入る事を禁じられ、夢ではないかと呆然としていた所、縁側に張り付いた長い髪の毛と血に染まった骨を見つける。
父母が本当に殺された事を悟った六郎は、その骨と髪の毛を取り集めて紙に包みながら父母の寝所に至った。
そこには身体が肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ、髪の毛に絡んだ血肉が襖や廊下に飛び散った母の姿があった。
六郎は仇の氏名を知ろうとするも、そのすべもなく悲嘆していた。
同年9月頃、通っていた稽古場で干城隊の山本克己の弟・道之助が級友3、4人を相手に自慢話をしているのを偶然聞いた。
兄の克己が家伝の名刀を持ちだし臼井亘理を斬殺して、名刀の歯を欠けさせたのだという。
六郎は養父に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出た。
しかし養父は
「復讐は大昔から国の大禁である。己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、そのことわりを研究し、その後で己で決める事だ。軽々しく粗暴な挙動に出てはならない」
と堅く戒めた。仇の山本家は丹石流剣術指南の家柄で、並の大人でも太刀打ちできる相手ではなかった。
1876年(明治9年)
19歳になった六郎は三奈木小学校の教師となる。
一刻も早く東京へ向かいたい六郎はその3ヶ月後、親族の木付篤が上京する事を知って、養父に東京に出て新しい学問を学びたいと申し出る。
同行者もいる事から東京行きを許され、8月23日、父の形見の短刀を密かに携えて木付と共に秋月を旅立った。
東京へは勉学修業といいながら、目的は一瀬直久と改名した仇の山本克己の居所を探る事であった。
1880年(明治13年)
11月半ば、旧秋月藩士・手塚佑の家を訪ねると、一瀬が東京上等裁判所に転勤し本芝3丁目に住んでいる事を知る。
六郎は一瀬を見つけると右手の短刀を抜いて喉元目がけて突き刺した。
その喉を突き、さらに動脈を切断してとどめを刺した。
上京して4年、事件の日から13年目に六郎は本懐を遂げた。
自首した六郎は取り調べののち、裁判にかけられた。
1881年(明治14年)
9月22日、裁判により終身刑を宣告。
1889年(明治22年)
大日本帝国憲法から恩赦を受け、12月6日、本刑に一等を減ぜられ、禁獄10年に減刑となった。
1891年(明治24年)
9月22日、34歳で釈放。
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