寿産院事件
①事件発生
1948年1月12日夜、新宿区弁天町の路上で4つの木箱を持った葬儀屋をパトロール中の警官が尋問した。
箱を開けてみると、なかから5体の乳児の遺体が発見された。
葬儀屋を取り調べると寿産院から遺体一人につき500円を貰って埋葬しており、これまでに30体以上の乳児を処理していたことを自供した。
遺体を解剖した結果、死因は3人が肺炎と栄養失調2人が凍死と判明した。
②犯人
①石川ミユキ
②石川猛
事件の主犯格は妻の石川ミユキである
石川ミユキは、1897年(明治30年)2月5日生まれ
宮崎県東諸県郡本庄村出身
宮崎県立職業学校の卒業後に18歳で上京
1919年9月30日に東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科を卒業し当時の女性としては非常に高い学歴を身に付けた。
内務省指定校である同院を卒業したため、無試験で産婆資格を取得し同年11月12日に東京府の産婆名簿に登録された。
その後は日本橋や牛込で30年余りにわたり産院を経営していた
③犯行内容
1月15日寿産院の会長で助産婦の石川ミユキとその夫の石川猛が逮捕された。
ミユキは約4年間にわたり始末に困る私生児を預かって寿産院で養育し、子供を欲しがる者に斡旋する特殊産院の事業を始めた。
当時は堕胎罪により人工妊娠中絶は厳しく制限されていた。
私生児を預ける母親は戦争未亡人、ダンサー、女給、娼婦などであった。
新聞の三行広告を掲載し、養育料として2千円から1万円を受け取った上で子供を引き取り子育てに困っている親から養育費を受け取って乳幼児をもらい受け、もらい手からは謝礼を取っていた。
また、乳幼児用の配給品などを闇市に流し事件発覚までに90万円とも100万円ともいわれる巨額の利益を手にし儲けていた。
預かる子供が増える一方で貰い手が少なくなると、
預かった子供には平常の半分しかミルクを与えず、風呂にも入れず、おむつも替えず、医者には死ぬ間際しか診せないなどの劣悪な環境に置いた。
このようにして、「売れ残り」の大部分は栄養失調症に陥らせて死亡させ、一部は冬期に保温せずに凍死させた。
④判決
1952年4月28日、東京高裁で主犯格の石川ミユキに懲役4年、猛に懲役2年の判決が下った。