小松川女子殺人事件
①事件発生
1958年8月20日、新聞社に若い男の声で
「江戸川区のOさんを殺し、死体を小松川高校の穴に投げ込んだ」
という内容に電話がかかってきた。
Oさんが3日前から行方不明である事実を確認した警察は、高校周辺を捜査。
だが遺体は発見されなかった。
翌日、警察に犯人を名乗る電話があり
「遺体は高校の屋上にある」
と告げた。
その言葉通り、屋上の防護壁の横穴から腐乱したOさんの遺体が発見される。
その後犯人は、
被害者宅や警察に遺品の櫛や手鏡を郵送した。
さらに読売新聞社へは反響を楽しむかのように30分にも及ぶ電話をかけた。
その際警察はその逆探知に成功した。
電話をかけてきた公衆電話ボックスには間に合わず、身柄は確保できなかったが、そこで電話をかけていた男の目撃証言は得られた。
この時の通話は録音されラジオで犯人の声が全国に放送された。
「声が似ている」という多くの情報が寄せられ、その中から有力な容疑者が浮かび上がった。警察は録音した犯人の声をラジオで流し情報提供を始めた。
②犯人逮捕
小松川署捜査本部は9月1日に工員で同校定時制1年生の男子学生
李 珍宇(イ・チヌ、当時18歳)を逮捕した。
犯人の李は東京都城東区(現:江東区)亀戸出身の在日朝鮮人であり、窃盗癖もあった。図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けていた。
李は、犯行当日プールで泳ごうと思い同高校に来たところ、屋上で読書をしている被害者を発見。彼女をナイフで脅し強姦しようとする。
しかし大声を出されたため殺害し屍姦、遺体を屋上の鉄管暗渠に隠した、と自供。
また彼は4月20日にも、23歳の賄い婦を強姦し、殺害。その後も屍姦したと自供した
※強姦については法廷では否認、検察によって導かれた供述であるとした
李が「悪い奴」という小説を書き、読売新聞社の懸賞に応募していたことが後に判明した。
この小説は、クラス費を盗んだことを山田という同級生に言いふらされ、就職してからもそれを密告され職場を逐われた主人公が、彼のことを殺害するという筋書きであった。
その殺害の状況は、4月の事件を基にしているのではないかと報道では書き立てられた。 逮捕前、一部の新聞により実名報道が行われたことから、少年法の問題が議論された。
李は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。
二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。
1962年8月、李は東京拘置所から宮城刑務所仙台拘置支所に移送され、同年11月16日に宮城刑務所にて死刑が執行された。享年22。
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