帝銀事件

①事件発生

1948年1月26日、帝国銀行椎名町支店に都の職員を名乗る男が支店長を訊ねてきた。

男は支店長に集団赤痢が発生した旨を伝えると職員を集めて持参した予防薬を

飲むよう指示した。

そして自ら薬を飲んで手本を見せた後、すぐに職員たちに服用させた。

その直後、職員たちは次々と嘔吐して倒れ12人が死亡



男はそれを見ながら近くに置いてあった現金と小切手を奪い逃走した。

犯人は現金約16万4410円

安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行)板橋支店の金額1万7450円の小切手

を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて

初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。

なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を

確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。



②犯人

事件発生から七か月後、警察は画家の平沢貞通を逮捕した。

平沢は一貫して犯行を否認していたが警察は暴行まがいの尋問で自白を強要。

精神的に疲弊した平沢は罪を認め起訴された。




③平沢貞通

平沢は二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選

する一流の画家であった。

実力派の画家としての地位を確立していた平沢は突如、帝銀銀行の犯人として警視庁に逮捕された。

平沢は取調べで自白をしたが、公判で無実を主張。

しかし平沢は、虚言癖や記憶障害や判断力低下をもたらす

コルサコフ症候群(狂犬病予防接種の副作用)にかかっており帝銀事件の自白もコルサコフ症候群による虚言ではないかと指摘する意見がある。

公判では6人もの証人が平沢のアリバイを証言するなど平沢が無実である証拠がいくつ

も上がった。



④判決

1950年7月24日、東京地裁で死刑判決。




⑤その後

平沢が逮捕されて以来、平沢の妻子と幼い孫は、世間からの心ない迫害と

マスコミの非常識な取材攻勢にさらされた。

平沢の家族は平沢姓を捨て、素性を隠して生きることを余儀なくされた。

1962年(昭和37年)作家の森川哲郎は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げた。

平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。


平沢は獄中で無実を訴え続けた。

長年宮城刑務所に収監されていたが、その後高齢のため体調を崩し八王子医療刑務所

に移送。

1987年5月10日午前8時45分にで肺炎を患い獄中で病死した。95歳没。


冤罪の可能性が高い事件であった。。。